- 2023.07.16 Sunday
新潟県上越市で街歩き〜雁木の街並みから高田城下へ
今回も新潟県上越市の高田を歩きます。(2022年5月)
市街地の中にある高田世界館という現役最古の映画館の前からスタートです。
本町通りを進みます。このあたりまで来ると建物も少し歯抜けになってきて雁木造りの連続した光景も途切れ始めてきます。
新しい建物も見られ始めもういいかな。といった感じもしたので本町7丁目の交差点を右に曲がります。
曲がった瞬間、素敵な街並みがまた始まりました。呉服店などが連なりなかでも瞽女(ごぜ)ミュージアム高田として活用されている麻屋高野店舗兼主屋は国の登録有形文化財です。
瞽女とは江戸時代から昭和の高度成長期まで各地を旅して三味線を弾きながら語り物や歌いものをうたった盲目の女性のことで、新潟には多くの瞽女がいて、特に長岡や高田には多く集まっていたそうです。
再び右に曲がって大町通りを歩きます。
この大町5丁目のあたりは新職人町といわれていました。
江戸時代後期に旧家中屋敷の場所に新しく作られた町で、六の辻との椀屋町と称する地域があり、塗物師が多く住んでいたことからつけられたといわれています。
この通りには江戸時代末期に建てられた市内で最も古い最大級の町家である、旧今井染物屋があります。
ここの雁木は前回紹介した古い形式の「造り込み式」の雁木です。
中を見学することができます。入り口であるミセからチャノマ、ザシキを見渡します。
土間に降りて土蔵、味噌蔵、作業場を見学。
明治から大正にかけて高田はバテンレースというレース状の飾りでテーブルクロスやピアノかけに使われている製品が一大産業で栄え昔は新潟県が全国の1/4のシェアを誇りました。
ここではバテンレースの実演、体験、販売をしています。
ほかにも染物工場がありました。
大町通りを進みます。大町通りのほうが建物が少し新しいところが多いような気がします。
ただ雁木の良さは残っています。
駅前通りを過ぎると古い町並みは残っている一方反対側のサイドは雁木は見られなくなります。
大町3丁目はかつて上職人町と呼ばれていました。南半分は両側町、北半分は西側のみの片側町だったとのことで、なくなったのではなく昔からそうだったのですね。
職人町の名の通り彫り物師、金具屋、研屋、鞘師など様々な職人が住んでいました。
司令部通りに出てきました。街並みがさらに変わってきました。
高田は陸軍の師団が置かれた町、直江津とともに空襲もうけています。
少し外れたところにある平出修の旧宅。弁護士、歌人、作家として業績を残した人で、幸徳秋水の大逆事件などで法廷に立つ一方で、短歌革新運動に加わり石川啄木らとともに文芸雑誌「スバル」を発行しました。
この旧宅で新婚生活を営みました。築120年を迎える国の登録有形文化財です。
服飾専門学校のまえには平出修がここに住むと書いた標柱が建っています。
旧師団長官舎です。市内に残る数少ない明治期の和洋折衷の木造建築物です。
裏庭はちょっとした庭園になっています。
再び司令部通りに戻って青田川という川を渡ります。
高田城址公園にはいりました。関川の流れを変えて外堀にしたため沼のように幅広いお堀が見えてきます。東側は雪をかぶった妙高山が映え、西堀は夏には蓮の花がきれいに咲き、西堀橋の赤い欄干がこれまたきれいに映えます。
続いて内堀が見えてきます。ここには極楽橋という橋がかかります。
1614年に徳川家康の六男松平忠輝は天下普請により高田城を4カ月で築城しました。
石垣はなく土塁が築かれています。
本町通りの市街地に戻ってきました。このあたりは整備されていて高い屋根のアーケードになっています。
高田まちなみ交流館として使われている旧第四銀行高田支店。市内に残る数少ない昭和初期の洋風鉄筋コンクリート建築物です。
高田の一番の中心部。かつてはいづも屋百貨店、長崎屋高田店、大和百貨店上越店など大きな商業施設が本町にありました。
アーケードを離れます。この建物は小熊写真館。
最後に仲町通りを歩きます。ここにも雁木はありますがどことなく昭和の香りがします。
消防分団の建物。相当古い建物ですが調べてもわかりませんでした。
このあたりはかつて下田端町と呼ばれていました。上田端町とともに肴商売などの特権を与えられていてその問屋を田端問屋と呼んでいました。
最後にその下田端に江戸時代から続く老舗料亭「宇喜世」の前で街歩きは終了です。
師団の高官たちが三階の座敷から金谷山を望んだといわれています。明治中期に今の場所に移転してきました。
広い庭園と数寄屋の料亭です。
雁木造りの街並みや町家、城下町や軍都としてのいろいろな街並みを楽しめました。
次回は鉄道回、妙高はねうまラインです。
- 新潟県
- 02:02
- comments(0)
- -
- by さんぽっぽ