- 2019.12.30 Monday
佐賀県佐賀市で街歩き〜柳町界隈と佐賀城跡
佐賀市の呉服元町です。
2019年最後のブログは佐賀で締めることになりました。
長崎街道をここから少し歩きます。
これから歩く柳町は大正末頃まで銀行や大店が建ち並ぶ佐賀経済の中心地として栄えたところです。
今でも古い建物が残っています。
柳の木があったり古い建物があったりと風情があるのですが、なんと目玉の旧古賀銀行が改修工事中。残念。
ここは明治18年に両替商をしていた古賀善平が設立した銀行で、九州の五大銀行になりました。
黒いポストがある。
向かい側は馬場家住宅、18世紀末から19世紀初期の建築で馬場家の祖先にあたる鍋島藩の藩医を務めた漢方医の高宗弘堂が居住しこの家で開業したと伝えられています。
旧古賀銀行の斜め向かいには明治18年に建てられた旧中村家住宅です。
古賀銀行が開業した際に社屋として活用した建物と伝えられていて、古賀銀行が新築移転した後は中村家の住居として利用されてきました。
こちらの広い敷地は旧古賀銀行の頭取の住宅でした。江戸期以来古賀家はこの地に屋敷を構えていましたが、明治17年にこの住宅を新築したと伝えられています。
中に入ります。
誰もいないようですが奥から掃除機の音だけが聞こえます。これだけの屋敷、掃除だけでも大変そうです。
ここは大隈重信も佐賀に帰郷した際に古賀家に滞在したそうです。
そして襖絵が珍しいそうです。
ただこの日もとても暑くてクーラーの前でずっと佇んでいました。
とても縁側で涼をとるなんてレベルではありませんでした。
旧森永家です。奥のほうまで敷地が広がっていて居宅や南蔵もあるのですが、通り沿いの北蔵だけしか撮っていませんでした。
南蔵の土蔵は三階建てでとても貴重な建物だったのですが。
ここは初代森永十助が煙草の製造を始め大隈重信も愛煙したそうです。
煙草の専売化により呉服業に転じました。
隣は旧牛島家。この建物は平成5年にこの場所に移築されてきました。
もともとは問屋業を営んだ人の屋敷でした。佐賀城下に残る町家建築としては最古と思われる建物です。
最後は旧三省銀行です。明治15年に旧佐賀藩士により銀行類似業務を行うために設立されました。
3年後に正式な銀行になりましたが明治26年に倒産しました。
同じ時期に古賀銀行ができていますが相手にならなかったのでしょうね。
中にも入れます。
三省銀行の案内板には倒産までのいきさつが細かく書かれていてせつなくなってきました。
簡単に説明すると投機師と取引をするようになってから投機師専門の金融機関になってしまい回収不能となり解散という形で倒産しました。
柳町をあとにします。
佐嘉神社に戻って北濠を越えます。最後は佐賀城に向かいます。
堀の先には市村記念体育館があります。
佐賀県出身の実業家でリコーの創業者の市村清によって佐賀県に寄贈された体育館で1963年に完成しました。
なんとサギがウロウロしていました。
佐賀城です。
1608年に龍造寺氏の居城だった村中城を鍋島直茂・勝茂親子が拡張して築城しました。
天守は享保年間の火災で焼失し、10代藩主直正の時に本丸御殿を再建しました。
天守台だけは残っています。
本丸御殿は明治以降も県庁や学校などの施設として利用されていたのですが1957年までに解体されてしまいました。
廃城令や戦火と関係なく昭和に解体されるのはとても異例なことだと思います。
ただその中で残っていたのがこの鯱の門です。
1836年に建立された貴重な建物です。
屋根の両端に青銅製の鯱が載っていることから鯱の門と呼ばれています。
本丸御殿は平成16年に復元されました。
外御書院です。廊下と左側の障子の向こうにある一之間から四之間までの大広間をあわせると320畳あります。
この日は大広間で結婚式をしていたので撮影することはできませんでした。
また撮影禁止箇所があるので廊下まわりだけ撮りました。
鍋島直正のコーナーです。
西洋医学の導入や日本初の和製大砲の鋳造など近代化を積極的に取り入れました。
簡単ですが佐賀城をでます。
佐賀空港に到着。春秋航空が就航したことで佐賀へ低価格で行けるようになったのは大変大きい。
2019年の街歩きブログはこれにて終了です。
今年1年ありがとうございました。
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- 20:32
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